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藤田達生『天下統一』

通説に挑み新知見も多く好評なのもうべなるかな。
が、その叙述は齟齬や恥ずいミスのオンパレードの
藤田達生『天下統一~信長と秀吉が成し遂げた「革命」』(中公新書,2014)を再読
(2014年5月初読)。

読みたい新刊はあれど、買う価値有りや無しや?
先ずは試読をと図書館に予約するも順番待ち多数(+_+)
旧刊でも読むかと物色してると、前に読んで勉強になった本書が目に入った(^^)

本書は環伊勢海政権、安土幕府と鞆幕府の二重政権、鉢植大名化、預治思想、武家官位制・・・
などなど小生的には教わる点も多く、通説に果敢に挑んで刺激的だし学説状況も分る好著(^^)

そんな本書への評価を損ねることはないけど、一貫性を欠く論述や矛盾、初歩的ミスが散見(..)
信長から離れるほどテキトーな叙述になる点で本書も「信長中心史観」の呪縛を克服できず^_^;
戦国時代に詳しい人はごまんといるから指摘するのも恥ずいんだけど、気になる点を挙げる^_^;

本書34頁

  同年十一月には、東美濃地域の安全を確保すべく、養女を甲斐と信濃を支配する武田勝頼
  に嫁がせた。翌永禄九年七月には義昭を奉じての上洛を表明するが、・・・

言うまでもなく信玄存命中ゆえ勝頼は甲斐・信濃等を継承してない^_^; 当時は「諏訪勝頼」?

本書63頁

  ここで、義昭が瀬戸内海の要港鞆の浦を選んだ理由を三点指摘したい。/第一点は、同所が
  足利家にとって因縁深い場所であったことである。義昭が当初居住した小松寺は、かつて
  再起をかけて京上する足利尊氏が兵を休めた寺院であったし、その子息足利直冬が中国探題
  に就いた地でもあった。義昭は、間違いなくこの佳例を意識していたであろう。

観応の擾乱で養父の直義が毒殺された後は同派の旗頭のような存在だったのに、いつのまにか
その姿が歴史上から消え失せちゃった足利直冬が「佳例」とはね(@_@) なお、「京上する」は
初見だが、小生が無知なのか(..)「東上する」「京へ上る」「上京する」「上洛する」では?

本書88~89頁

  [長宗我部]元親は、天正九年・・・同年八月には義昭を推戴することで、伊予支配をめぐって
  仇敵関係にあった毛利氏と同盟を結び、信長との戦争に向けての態勢を整えた。中国・四国
  地域に義昭を推戴する反信長ブロックが形成されたことによって、前年から予定されていた
  信長の西国動座すなわち鳥取城遠征は頓挫してしまう。

ところが、この信長の西国動座が頓挫した理由は、本書130頁になると、

  しかし、信長の鳥取への親征すなわち西国動座は実現しなかった。/その理由は、毛利氏が
  鳥取に進出できなかったからである。もっとも地の利のある吉川氏ですら、伯耆羽衣石城の
  織田方南条氏の奮戦が障壁となって、因幡に入国することができなかった。さらに同時期に、
  信長と断交した長宗我部氏が毛利氏と結んだことから、彼らの動向を信長が懸念して親征が
  沙汰やみになった可能性もある。  

ここでは全く異なる理由を挙げて、前に提示した理由は「可能性もある」と後退してる(-"-)

信長による家臣団の鉢植大名化についての本書106頁の説明で、

  天正十年の甲斐武田氏滅亡後は、滝川一益が伊勢長島から上野厩橋(群馬県前橋市)へ、
  ・・・と国替となった。

本書137頁でも、

  たとえば、天正十年三月の武田氏滅亡後、老臣で北伊勢を領有していた滝川一益は、関東
  八ヵ国を統括するために上野国厩橋への国替を命ぜられ、しぶしぶ従ったといわれる。
  
この時点では「北伊勢」も滝川一益が領有したままのはずだから、「国替」ではないのでは?
じゃなきゃ本能寺の変後の神流川の戦いで北条軍に敗れ伊勢長島へ帰ったことの説明がつかん。
「しぶしぶ」云々は武田攻めの褒美として領地の加増より信長秘蔵の名物茶入「珠光小茄子」
を所望したのに却下されたからでしょ^_^; 桑田忠親『本朝茶人伝』(中公文庫,1980)206頁に
そのネタ元と思われる一益の書状が訳されて紹介されてるし、かなり有名な逸話だわな(@_@)

本書131頁

  すなわち天正十年二月、天正三年の長篠の戦い以来の懸案だった武田氏攻撃に着手する
  のである。/・・・信長が甲斐に入国する以前の三月十一日に天目山(山梨県甲州市)で
  勝頼を自殺させて終了した。/北条氏は、この戦争において駿河国内の諸城を攻撃した
  だけで、顕著な働きを示したわけではない。

「北条氏は・・・駿河国内の諸城を攻撃しただけ」ですとぉ!? 北条氏をナメんなよ(-"-)
例えば、平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望~天正壬午の乱から小田原合戦まで』
(戎光祥出版,2011)13~14頁に曰く、

  信長は勝頼滅亡後、旧武田領国の分割を行い、各地に家臣を配置して統治を開始させた。
  しかしその際に、信長は北条氏政をこの領土分割から完全に閉め出し、暗に北条氏への
  圧力を仄めかした。それは、北条氏政が勝頼に対抗するため織田氏に「降参」を表明し、
  盟約を結んでいたにもかかわらず、武田領出兵にあたっては最終段階で急遽参戦し、
  勝頼滅亡後も信長の元へ自ら挨拶に出向いてこなかったことに不快感を持っていたため
  である。この結果、北条氏は武田氏滅亡時に占領していた駿河国駿東郡・富士郡、
  上野国西部からの撤兵を余儀なくされたのである。

また森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀~小田原合戦・敗北の真相とは?』
(洋泉社歴史新書y,2013)43~45頁によれば、

  ところで、この織田軍の武田攻めのとき、北条家はどうしていたのか―。/実は、
  北条家も、武田家に総攻撃をかけるという織田家からの連絡を二月二十日に受けたと見え
  (『小田原市史』)、同日に陣触れを発して、駿河と上野の二方面から武田領に進攻した
  のである。/駿河方面へ進んだ北条軍は、天神ヶ尾城、徳倉城、沼津城、深沢城を相次いで
  攻略し、三月二日までに河東地区一帯を制圧し、その後は甲斐に向かって進んだ。/
  いっぽう、上野方面へ進んだ北条軍は、西上野へ入り、箕輪内藤家、和田家の調略を
  成功させた。つまり、北条軍もそれなりの活躍をし、駿河の東部と上野の中央部を
  制圧していたのである。
  
ちなみに、同書は色々と教わることがあったけど、その解釈や論証には得心できなかった^_^;
なお、同書199頁の「十一月五日から七日」云々の「十一月」は「十二月」の、同書201頁で
「讃岐」が「伊予」となってる等の誤植はさておき、秀吉が家康の真田昌幸征伐を容認した
ことを知らせる水野惣兵衛尉忠重への条目を送った日を、同書116頁は「八月六日」とするが、
平山・前掲書204頁&270頁は「八月九日」としてて、どちらが誤植かな(..) 平山・前掲書に
よると、秀吉の家康への昌幸征討許可はこの「八月九日」の他にも、7月17日(同270頁)や
「八月六日」(同204頁)にも出てる一方、8月7日に「羽柴秀吉、真田昌幸征討中止を家康に
求める。」(同270頁)ともあるから、この日付が正しいのかどうか引っ掛かるんだよね^_^;

本書158頁

  秀吉書状などの同時代史料を子細に検討すると、毛利氏との講和は通説の六日ではなく
  五日に締結して上方に向けて進軍し始め、・・・

斯くも通説を正すのは小生的には好きなんだけど、読み進めると、本書181~182頁では、

  備中高松城を攻撃中の秀吉は、本能寺の変の情報を得ると、天正十年(一五八二)
  六月四日に毛利氏と講和を成立させ、・・・

根拠を示さず更に1日早まってる(-"-) いずれ6月2日の本能寺の変以前になったりして^_^;

本書は著者校正がなかったのかしら(@_@) また本書の担当編集者の目も節穴なのか(-"-)
同じような本書内記述間の齟齬として、秀吉による「北国国分」を説明した本書192頁では、

  [佐々]成政の降伏の後、・・・前田利家は、残りの越中三郡と加賀・能登および
  天正十三年四月に没した丹羽長秀の旧領越前を任される。

とするけど、本書194頁の「図表5-2 天正13年国替一覧」の「越前」欄に載っているのは
堀秀政、長谷川秀一、木村常陸介、金森長近、蜂屋頼隆であり、利家の名前はない^_^;
だって利家は「丹羽長秀の旧領[←正確には本書269頁で述べられてるように長秀没後に
子の長重が当初は継承していた]越前を任され」てはいないんだから当然だわね(+_+)

著者の言う「文禄四年政変」の結果の「秀吉側近の大名化」の一例として、本書250頁は、

  前田玄以は改易された小早川秀俊(木下家定五男で後の秀秋)の遺領を継ぐ。

「遺領」って、死んじゃったの? 死んだのに「後の秀秋」って、小早川秀秋は幽霊か^_^;

本書265頁

  近年、藤木[久志]氏は九州や関東・奥羽に発令した秀吉の停戦令を惣無事令とみなし、
  それまで惣無事令の原法度とみた史料群についてはふれなくなった。

この一文は笑えた^_^; 著者は本能寺の変の足利義昭黒幕説で有名だが、その証拠としてた
河隅忠清の直江兼続宛書状を批判に耐えかねたのか本書では「ふれなくなっ」てたから^_^;

例えば、信長の政権を本書は「安土幕府」と呼んでいる。本書76頁にあるように、

  武家政権の成立は、正確には征夷大将軍任官が画期にはならないのである。前近代に
  おいては、ポストと権限が必ずしも同時に付与されるものではないからである。

これだけなら得心だけど、この2行の前にその根拠として置かれた本書76頁の一節を併せ読むと、

  ・・・足利義政以降の戦国時代の将軍家の家督候補者は、基本的に左馬頭に任官して、
  右近衛大将(もしくは左近衛中将)を経由して将軍に就任している(兼任する場合もある)。
  また左馬頭になりなから家督を継げなかった足利義視(子息義材を将軍に擁立)や先述した
  [左馬頭任官も将軍にはなれなかった]足利義維(「堺公方」「堺大樹」「阿波公方」と
  よばれる)にしても、将軍相当者としての実権を掌握したことが明らかになっている。

征夷大将軍ではなく左馬頭への任官が要件かと一瞬読めてしまいスムーズに頭に入らん(+_+)
「義材を将軍に擁立」したのは義視じゃなく日野富子だし、どうも論証が巧くないよね(..)
念のため言えば、義政以前のケースだけど、左馬頭と左近衛中将には叙されてたのに、父の
足利義満が死去したため、「実権を掌握」できなかった例として足利義嗣がいるけどね(^^)

ところで、先行研究も踏まえ、新史料も活用した丁寧な推論・叙述で大変勉強になったのが、
金子拓[ひらく]『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書,2014)(^^) 同書270頁は、

  信長のばあい、・・・ましてや俗に〝鉢植え〟と呼ばれるような大名の封地替えまでには
  (直属の家臣以外は)当然のことながら、彼の権力はおよんでいない。/秀吉の構築した
  支配体制が徳川幕府に継承されてゆくことを考えれば、信長と秀吉のあいだには大きな
  断絶がある。秀吉の時代を近世の始まりとしていいのなら、信長の時代は、いまだ中世の
  色合いが濃厚に残っている。

としており、幾つかの点で本書と比べても興味深かった(^^) 同書の「あとがき」の日付は
「二〇一四年六月晦日」なのに、同年4月25日発行の本書についての言及がないのは残念^_^;

案の定、思い出せなかったから、本書著者の既読分をメモ(+_+)

・『謎とき本能寺の変』(講談社現代新書,2003)
◎『江戸時代の設計者~異能の武将・藤堂高虎』(講談社現代新書,2006)
  144頁「巨大な上方市場の支配下・・・流通の結節点に都市を建設」→県内帰住先限定08.1
◎『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書,2007)
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