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百目鬼恭三郎『新古今和歌集一夕話』

なぜ新潮社は『読書人読むべし』や『新古今和歌集一夕話』を文庫化しなかった?
単行本での売れ行きからして、出せば増刷も予想されたのにね(..)

百目鬼恭三郎『読書人読むべし』(新潮社,1984)20~26頁は「日本の古典」を読むなら、
先ず『百人一首』を読め、次は『新古今集』、その次は『古今集』と、その順番も指定してて、
丸谷才一も同書を評して「・・・この順序は正しいと思うんです。」と首肯してたこともあり
(丸谷才一&木村尚三郎&山崎正和『「鼎談書評」三人で本を読む』[文藝春秋,1985]185頁)、
百目鬼恭三郎『新古今和歌集一夕話』(新潮社,1982)をとりあえず読了。メチャ良かった(^^)v

書名の通り、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』(←誰か現代語訳を出して下さいm(__)m)に倣って、
『新古今集』から各回に1人を採り上げ「・・・最初に歌をあげてその大意を説明し、次いで
作者の略伝、関係事件、逸話などを紹介・・・」(本書7頁)する。曰く、「要するにこれは、
知的な好奇心はあるが、日本の古典、殊に和歌は苦手だ、と、日ごろ敬遠している読者のための
『新古今集』紹介なのである。」(本書8頁)。選ばれた作者は36人。でも、漏れてしまったが、
その作品は紹介に値する11人も「番外」の回で、また『新古今集』に1~3首しか入集してない
「群小歌人」(本書214頁)10人も堀河院の回で、それぞれの作品を紹介している(^^) だから、
本書が紹介する歌の数は、各回の巻頭歌の他に、その本歌など関連する歌や作者の他の秀歌も
紹介してくれているので、巻末の便利な「引用和歌索引」で数えると、数え間違いがなけりゃ、
後述の遺漏を含め377首。その内の『新古今集』入首歌は187首ゆえ約1割を紹介してることに。
ただ、元は学鐙1978年12月号~1981年12月号の連載で、連載時の季節に合わせようとして、
巻頭歌が必ずしもその歌人の代表作ではなかったり、当然紹介すべき秀作が落ちてしまった由、
そこで最後の「番外」の回において僅かばかりの補遺・修正がなされてる(本書227~228頁)。

そう言えば、学鐙には書評を書いたことがあったわ^_^; たしか、ある先生への依頼だったけど、
その研究室の弟子(助手?)に廻され、彼から対象書物の内容が小生に適してると言われたので
引き受けた仕事^_^; 担当の女性編集者とも電話で話しただけで、非常に品のある方だったが、
メールが使えないとかで原稿提出もファクシミリか郵送となり、また原稿料もまぁ良かったので
(書評対象のハードカヴァーの洋書も勿論タダで貰う)、流石、丸善は老舗だなぁと感じたこと
を思い出した(^^) 当ブログのように重箱の隅を楊枝でほじくったり揚げ足を取るような書評には
せず、最後に皮肉めいたオチをつけた程度で無難に纏めたのは、小生も大人だったから^_^;

本書はピックアップした各秀歌の鑑賞のツボを著者が外さず、明快に解説してくれているので、
和歌はどう鑑賞したらよいのかも分った気にさせてくれる(^^)v 稀代の読書人として博捜博識で
知られる著者だから、本書も和歌の解釈や作者の解説において、注釈書や歌学書は勿論のこと、
『新古今集』や歌人などに関する専門書の見解も自家薬籠中の物のように紹介・活用しており、
しかも、時にその誤りも指摘してるから(「風」だからね^_^;)、面白いし勉強になったm(__)m
とりわけ、採り上げた36人の「略伝、関係事件、逸話など」の紹介が、やはり面白かったけど、
小生的に唸らされたのは、曾禰好忠の回で、その人物逸話を紹介した次の件(本書118頁)。

  円融院の子の日の遊びに招きもないのに出席して追い出されたという話にしても、
  『今昔物語』などは、とがめられて好忠は「歌人が召されると聞いて参りました。
  私がここに参っている人たちにどうして劣りましょうや」と答えて席を立たず、
  外へ引きずり出されると、丘の上に逃げのぼって「おまえたちはなぜ笑うか」とどなった、
  という風に狷介そのものの人物に仕立ててしまっている。/これがかなり誇張されている
  ことは、同じ宴遊を記録している『小右記』では、好忠は召人の中に入っていたのに、
  公卿たちが「指名していない」といって追い立てたのだと書いていることによって明らか
  だろう。『曾丹集』に載る「与謝の海の内外の浜のうらさびて世をうきわたる天の橋立」
  という歌の詞書には「円融院御子の日に、召しなく参りて、さいなまれて又の日、
  奉りける」とある。この詞書自体がすでに『小右記』と食いちがっているが、これは
  好忠自身が自分の不遇を強調するためにした誇張と解すべきであろう。この詞書に
  尾ひれがついて、『今昔物語』にみるような物語になったものらしい。

マジ!? 同逸話を紹介する文献には『小右記』も何の断りもなく挙げてるのがあるぞ(@_@)

『小右記』と言えば、繁田信一『殴り合う貴族たち』(角川文庫,2008)だが、同書30~31頁は

  ともかく、円融上皇主催の宴に場違いな身なりで参加しようとした曾禰好忠であったが、
  この老歌人というのは、そもそも、この野遊びの宴に喚ばれた歌人の一人ではなかった。
  彼は喚ばれもしないのに勝手に押しかけてきただけだったのである。/そのため、
  好忠は手荒にその場を追い立てられることになる。襟首をつかまれて仰向けに引き倒された
  うえで、宴の場から引きずり出されてしまったのだ。/さらに、上皇の御前から
  遠ざけられた好忠を待っていたのは、殿上人たちによる無慈悲な集団暴行であった。好忠の
  ふるまいに腹を立てた幾人もの殿上人が、順々に好忠の身体を足蹴にしていったという。
  これは、老人には酷な仕打ちであった。/そして、『今昔物語集』に収められた説話の
  伝える右の一件は、どうやら、実際に起きた出来事であったらしい。藤原実資の日記である
  『小右記』に、寛和元年(九八五)の二月十三日のこととして、円融上皇の野遊びの宴の座
  から曾禰好忠が追い立てられたという事件が記録されているのである。
  
御覧の通り、「『小右記』では、好忠は召人の中に入っていた」という素振りすらない(..)

では、寛和元年(985年)2月13日における好忠に関する小右記の記述はどうなってるのか、
倉本一宏編『現代語訳 小右記 1 三代の蔵人頭』(吉川弘文館,2015)164頁の訳で確認する。

  歌人を御前に召した〈先ず座を給わった。〉。・・・曾禰好忠・中原重節である。
  公卿たちは、特に召しが無かったと称し、好忠と重節を追い立てた。 [準備をした
  源]時通が云ったことには、「好忠は、すでに召人の内にある」と云うことだ。

繁田の本は「素行の悪い光源氏たち」(同書18頁)の姿を描くのが主眼だからかもしらんが、
その史料読解・評価のセンスは疑わしくなったな(+_+) メチャ面白かっただけに残念(;_;)

当時の代表的な注釈書も確認した。阪倉篤義&本田義憲&川端善明校注『新潮日本古典集成
今昔物語集 本朝世俗部三』(新潮社,1981)は当該記事の頭注や巻末の付録で『小右記』にも
きちんと言及してはいるが、好忠が実は召人に入っていたことは指摘していなかった(+_+)
山田孝雄&山田忠雄&山田英雄&山田俊雄校注『日本古典文学大系26 今昔物語集 五』(岩波
書店,1963)は当該記事の頭注で『小右記』の同日の条に触れて次のように記す(同書56頁)。

  曾丹が擯出される件については「公卿達称無指召、追立好忠重節等、時通云、
  好忠已在召人内云々」と叙するのみ。

『小右記』の決定的な件を引用しながら、この「と叙するのみ」とは何なんだ(@_@) 好忠が
「召しも無きに」参上したのは愚かだの浅はかだの評されてる説話なのだから、その前提事実
を覆す証言があれば、もっと言挙げすべきだろ(-"-) 証拠評価を誤ってるとしか思えん(+_+)
な~んて、素人の戯言だが、この頭注を見逃さなかったのか、百目鬼のセンスを買いたい(^^)

なお、百目鬼恭三郎『乱読すれば良書に当たる』(新潮社,1985)237~240頁に収録されている
「新古今和歌集」と題した一篇では、『新古今集』について、

  その特色の中で殊にめだつのは、絵画的な美を表現しているということと、
  物語的な余情をねらっていること、の二つであるようだ。

とし(同書238頁)、入集歌を例に挙げ説明するのだが、『新古今集』の歌風が盛んだったのは
建久(1190~1198)からせいぜい建保(1213~1218)までの二十数年間にすぎないとして、
『新勅撰集』や藤原定家の新しい歌風を紹介した上で、

  要するに、『新古今和歌集』は、短かった文学ファッションの名残りなのである。

と〆ていることを(同書240頁)、メモっておこう(^^)

さて、本書にも気になった点が3つあったので、一応指摘しておく^_^;

本書228頁

  萩の葉に風うちそよぐ夕暮は音せぬよりもさびしかりけり

「番外」で、この傑作を俊恵の回の掲載後に『月詣和歌集』で見付けた時の無念さは未だに
忘れられないと述べながら紹介してるが、同歌は巻末の「引用和歌索引」から漏れてるぞ^_^;

本書155頁(2箇所)&本書232頁(巻末の「引用和歌索引」)

  朝霧や立田の山の里ならで秋来にけりとたれか知らまし

法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通の『新古今集』入首歌(15~18歳での詠!)だが、
上記の3箇所全てにおいて、「朝霧や」が「朝露の」となっているのは誤植だろうね(+_+)
小生所蔵の本書は「昭和五十九年五月十五日 六刷」なのに、誰か気付けよ(-"-)
たまたま小生は本書が取り上げた『新古今集』に入集した歌は全て手元にある、
石田吉貞『新古今和歌集全註解』(有精堂出版,1960)を参照してたから気付いただけ^_^;

そう言えば、新潮社常務取締役の石井昴が豪語してたな。

  http://magazine-k.jp/2015/07/09/libraries-are-not-ememy-of-the-books/

  新潮社の校閲は伝統もあり、20年で一人前という本当のプロの校閲者が50人以上、
  もちろんほかにも大勢の社外校正者がいます。校閲の経費で年間8億以上です。
  それだけ高品質の本を出さなければいけない。

重箱の隅&揚げ足だが、その「伝統」とやらは長くてもここ30年のこととなるわけだな^_^;
この石井の気概は頼もしい限りだけど、誤植やケアレスミスの根絶は不可能だよ(..)

以上の2つは、どうでもいいような些細なことだけど、次がチト残念な点なのだ(+_+)

本書8頁

  ・・・「逢ふことの絶えてしなくば」の作者藤原朝忠が、やせるための食餌療法といって、
  山盛りした鮎と干瓜といっしょに、大椀の水飯を何杯もお代わりしてみせ、
  医師をあきれさせた、という滑稽話まであって、・・・

本書7~8頁の『百人一首一夕話』に載る面白い逸話を紹介した中の一つだけど、この滑稽話は
尾崎雅嘉が藤原朝忠(土御門中納言)と弟の藤原朝成(三条中納言)を混同したものであると
石田吉貞『百人一首評解』(有精堂出版,1956)138頁が丁寧に論証済みだし、また、この話は
『今昔物語集』に「三条中納言、水飯を食ふ語、第二十三」として載ってて、前掲『新潮日本
古典集成 今昔物語集 本朝世俗部三』も前掲『日本古典文学大系 今昔物語集  五』も欠字と
なってる三条中納言の「名」を「朝成」と補してるわけだから、不適切な例を挙げたよね(..)
もし本書を「風」が書評したら・・・(@_@;) そもそも百目鬼は前掲『読書人読むべし』21頁で

  その『百人一首』の注解書としては、石田吉貞『百人一首評解』(有精堂)をおすすめ
  する。著者は定家研究の第一人者で、その評釈は堅実であると同時に、平安和歌の美しさ
  をよくとらえている点がすぐれていると思う。

としてたし(この評は的確だった!)、また『奇談の時代』(朝日文庫,1981)の著者として
『今昔物語集』も読み込んでるはずゆえ、マジで謎(@_@) 上手の手からも水が漏れたか(+_+)

好忠の前記逸話で、ある小説を思い出し再読したら、「ルパンを追ってて、とんでもない物を
見つけてしまった!どうしよう?」という銭形の棒読み台詞状態に・・・次回につづくm(__)m

[追記160112]

本書26頁

  「わが恋は」のほうは幽玄と妖麗をかねた歌であるし、「みせばやな」のほうは、華麗な
  パノラマ風の絵画美を描き出しているのだ。/それからみると、この「昨日見し」の歌、
  あるいは、この歌のすぐ前に採られている「みな人の・・・」・・・などは、色のないこと、
  また抒情の異質である点で、ほとんど別風の歌のように感じられるだろう。しかし、この、
  無常観の理念的な表白も、『新古今集』のひとつの特色なのであり、その代表的な作者が
  慈円なのである。

[追記161225]

久保田淳『新古今和歌集全注釈 一』(角川学芸出版,2011)は16200円もした(T_T)
その腰巻には、

  第一人者による最高峰の注釈書、ついに完成!

と記された上に、次のように書かれている(^^)

  題、歌の意味、語の詳細な解説とともに、本歌や参考歌、撰者名注記、鑑賞などを収録。
  同時代・後代の評価、影響関係、享受の歴史など、豊富な知見が満載の鑑賞欄で、
  だれでも『新古今和歌集』を深く味わえます。

しかし、本書『新古今和歌集一夕話』の方が「豊富な知見が満載」だったりすることを
別ブログ「けふもよむべし あすもよむべし」に書いた(^^)

http://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2016-12-23

ただ、本書にも瑕瑾があることに気付いたので指摘しておくことにする(..)

後徳大寺左大臣こと藤原実定の新古今集入集歌
「石ばしる初瀬の川の浪枕はやくも年の暮れにけるかな」を取り上げた
本書83~84頁に次のような逸話が紹介されている。

  とにかく、こういう[平家物語や古今著聞集の]逸話によって、
  実定は権勢欲のつよい厭な人物というイメージをつよめているようだ。
  実定が寝殿の屋根に鳶がとまらないように縄を張らせたのを、西行が見て
  「鳶がいて何の障りがあろう。この殿の御心もこんな程度か」といって、
  それからはよりつかなくなった(『徒然草』)といった話も、
  実定が厭な人物であるというイメージから生まれたものだろう。

桑原博史(全訳注)『西行物語』(講談社学術文庫,1981)188頁も紹介している(^^)

  実定はともかく、その父や祖父の実能・公能とは親しくしていたのだから、
  その関係の挿話が『[西行]物語』に取り上げられてよさそうである。
  それがないのは、『古今著聞集』『徒然草』に伝えられて、
  鎌倉時代に流布していた話と思われる次の挿話のためであろうか。

    西行法師、出家より前は、徳大寺左大臣の家人にて侍りけり。
    多年修行の後、都へ帰りて、年頃の主君にておはしますむつまじさに、
    後徳大寺左大臣の御もとにたどり参りて、まづ門外より中を見入れければ、
    寝殿の棟に縄を張りけり。あやしう思ひて、人にたづねければ、
    「あれは、鳶すゑじとて張られたる」と答へけるを聞きて、
    「鳶のゐる、何かは苦しき」とて疎みて帰りぬ。   (『古今著聞集』)

古今著聞集と徒然草に同じ逸話が載っているものと思い込んでいたが、
木藤才蔵校注『新潮日本古典集成 徒然草』(新潮社,1977)を眺めててびっくり(゚ロ゚;)
同書の第十段の最後の一節は次のようになっていた。

  後徳大寺大臣の、寝殿に鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、
  「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心、さばかりにこそ」とて、
  その後はまゐらざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、
  いつぞや縄を引かれたりしかば、かのためし思ひ出でられ侍りしに、まことや、
  「烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」
  と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。
  徳大寺にも、いかなるゆゑか侍りけん。

先に引用(孫引き)した古今著聞集の巻十五に無い部分の訳を
安良岡康作訳注『現代語訳対照 徒然草』(旺文社文庫,1971)から引くと、

  ・・・綾小路の宮が、お住まいになっている小坂殿の棟に、いつだったか、
  縄をお張りめぐらしになっていたので、あの後徳大寺の大臣の例が
  思い出されましたところ、わたしの話を聞いて、「ほんとうにそういえば、
  棟に烏が群がってとまり、お庭の池の蛙をとって食べたので、それをご覧になり、
  かわいそうにお思いになったからのことなのです」と御殿の人が語ったのは、
  なるほど、それならまことに結構なことであったと感じたことである。
  後徳大寺の大臣の場合でも、何かのわけがございましたのでしょうか。

実定にも理由があったのかも、と兼好は弁護しているのが主旨なんだから、
本書が「実定が厭な人物であるというイメージから生まれたもの」として、
この西行の逸話を徒然草から引くのはチトおかしいだろう(+_+)

別ブログ「けふもよむべし あすもよむべし」で数回にわたりボロクソに書いてしまった
池田弥三郎『百人一首故事物語』(河出文庫,1984)だが、公平を期すため紹介すると、
藤原実定「ほととぎす 鳴きつる方を眺むれば、ただ、有明の月ぞ残れる」の「伝承」の項で、

  徒然草に書かれた、鳶に巣をかけさせないための設備が、西行を落胆させたが、
  一途になさけない仕打ちとばかりは言えないという弁護も兼好が試みている。

と(同書183頁)、ちゃんと指摘していたm(__)m 同書182頁の「作者」の項では、

  御徳大寺左大臣といわれた。

と誤植はあるけど^_^;
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